瑞穂野地区の概要(がいよう)
TOP

             

『瑞穂野村郷土誌(みずほのむらきょうどし)
~大正(たいしょう)5年~

垂仁天皇
(すいにんてんのう)の時(とき)
刑部連首(おさかべむらじおびと)の領地(りょうち)となって刑部(おさかべ)の名(な)が起(お)こりました。

雄略天皇
(ゆうりゃくてんのう)の時(とき)
(くわ)を育(そだ)てることが盛(さか)んであったことから桑島(くわじま)の名(な)が起(お)こりました。

 神護(じんご)元年に勝道上人(しょうどうしょうにん)が成願寺(じょうがんじ)を開(ひら)き,一条天皇(いちじょうてんのう)の正暦年間には藤原秀郷(ひでさと)の一族である平松荘司が治(おさ)め,康平6年から宇都宮氏(うつのみやし)の領地(りょうち)となり開(ひら)けてきました。
 その後は,慶長2年から宇都宮藩
(うつのみやはん)の領地(りょうち)となり,明治維新(めいじいしん)に至(いた)りました。

 慶長
(けいちょう)2年の頃(ころ)は,既(すで)に桑島(くわじま)を上桑島(かみくわじま)と下桑島(しもくわじま)に,刑部(おさかべ)を西刑部(にしおさかべ)と東刑部(ひがしおさかべ)にわけててありました。
 平塚
(ひらつか)は幕府(ばくふ)の領地(りょうち)で代官(だいかん)が支配(しはい)しました。

 安政
(あんせい)2年には,菊地孝兵衛(きくちこうべい)が上下桑島の一部と鬼怒川東岸の開墾(かいこん)を始(はじ)めました。7年間たいへんな苦労(くろう)をしました。
 この桑島新田村
(くわじましんでんむら)は,開墾者(かいこんしゃ)の名を取って佐孝新田とも言われました。

 明治
(めいじ)22年に,上桑島(かみくわじま),下桑島(しもくわじま),東木代(ひがしきのしろ),東刑部(ひがしおさかべ),西刑部(にしおさかべ),桑島新田(くわじましんでん),平塚(ひらつか)の七つ村が合併(がっぺい)し,瑞穂野(みずほの)村となりました。

 

瑞穂野南小学校区の歴史遺産(れきしいさん)
    場   所 古墳の種類 
6世紀  根本西台古墳群(ねもとにしだいこふんぐん)  瑞穂野中北側  
7世紀  西刑部遺跡(にしおさかべいせき)  市総合運動公園  円墳・前方後円墳
 下桑島西原遺跡(しもくわじまにしはらいせき)  保税倉庫  前方後円墳
 成願寺遺跡(じょうがんじいせき)  瑞穂野バイパス江川東  円墳
 大関台遺跡(おおぜきだいいせき)  瑞穂野バイパス江川西  集落
8世紀  勝道上人(しょうどうしょうにん)が成願寺(じょうがんじ)を開基建立(かいきこんりゅう)
 東山道(とうさんどう)
12世紀  大関観音(おおぜきかんのん)
15世紀  宇都宮氏同族 横田五郎兵衛吉業(よしなり) 刑部城築城(おさかべじょうちくじょう)
江戸時代  上桑島(かみくわじま)村・下桑島(しもくわじま)村・桑島新田(くわじましんでん)村・東刑部(ひがしおさかべ)村・西刑部(にしおさかべ)村・東木代(ひがしきのしろ)村・平塚(ひらつか)村 の七村
戊辰戦争
1868年
慶応4年
 4月18日 幕府軍(ばくふぐん)鬼怒川(きぬがわ)をわたり刑部(おさかべ)村に宿泊(しゅくはく)
 4月19日 宇都宮城(うつのみやじょう)攻撃(こうげき,桑島村の松林で待ちぶせの烏山からすやま)(はん)退却(たいきゃく)
明治22年  七村合併(がっぺい)→瑞穂野(みずほの)村,村役場(むらやくば)は下桑島字谷川しもくわじまあざたにがわ),今の郵便局(ゆうびんきょく)
明治38年  瑞穂野高等小学校跡地(あとち)に役場(やくば)が移転(いてん)
 瑞穂野高等小学校は尋常(じんじょう)小学校となり,今の瑞穂野北小の位置(いち)に新築移転(しんちくいてん)
昭和29年  宇都宮市に合併(がっぺい)