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日誌
対馬丸撃沈81年 平和を願う
太平洋戦争後期の1944年(昭和19年)8月21日に、疎開のため計1788人(学童834人)を乗せて那覇を出港した「対馬丸」が、長崎県に向かう途中の8月22日の夜に米潜水艦の魚雷攻撃を受けて、鹿児島県・トカラ列島の悪石島(あくせきじま)沖で沈没しました。1484人が死亡し、うち15歳までの子供は約1000人でした。
引率教員としてこの船に乗船し多くの教え子を亡くした上野(旧姓新崎)美津子さんは、自責の念から出身地の沖縄に帰ることができず、90歳で死去するまで栃木県栃木市などで暮らしました。その長女である上野和子さん(20代の頃、仕事の関係で宇都宮市清原に在住)は、多くの教え子を目の前で亡くし自身は生き残った母の苦悩の様子を、著書「蕾のままに散りゆけり」に記しています。
その後、上野和子さんは2015年になって、NPO法人「菜の花街道(宇都宮市上籠谷町)」を通して、「荒井退造(あらいたいぞう)」のことを知ることになります。「荒井退造」は、沖縄県警察部長として疎開事業で沖縄県民20万人を救った人で、宇都宮市清原の出身であることに驚愕したそうです。そして、この事実をすんなり受け入れることができなかった上野和子さんの心の中に、次に湧いてきた感情は「怒り」であったそうです。「疎開を強力に進めたのが荒井退造であり、母が苦しんだ発端はここにあったんだ・・・。」との思いからでした。「差し迫る戦火から沖縄県民を一人でも多く救おうと進められた疎開事業の中心にいたのが荒井退造であり、かたや、その疎開で多くの子供たちを失い生涯苦しんだ母がいることに心の整理が出来なかった。」と、その時の気持ちを吐露しています。
その後、上野和子さんは、「沖縄の島守(田村洋三著)」を通して、沖縄県警察部長 荒井退造が新任の沖縄県知事 島田叡(しまだあきら)と共に、沖縄島民20万人の島外及び県北部の山原への疎開を強行したお陰で、多くの島民が戦火を逃れ終戦を迎えられたその功績を知ることとなります。この疎開事業の中で対馬丸事件が起きて、荒井退造は相当に悩み、疎開を止めるか続けるか、判断に苦慮したそうです。結果、疎開事業は続行され、多くの命が救われることになりました。「沖縄にルーツを持つ自分として、多くの沖縄県民を救ってくれた感謝の気持ちがある。それを栃木県民として誇りに思いたい。」と、著書の中で記しています。
戦後80年を迎える今年、対馬丸撃沈から81年が経ちます。上野和子さんは、「疎開船の悲劇を多くの方に知ってもらい、平和への想いを強くしてほしい。」と呼び掛けています。また、著書の中で、遠く離れた沖縄県と栃木県の清原の地が時を超えて交わり結びつく「運命」のようなものを感じることを話しておられました。
公益財団法人 対馬丸記念会 対馬丸記念館HP
070823 下野新聞 対馬丸撃沈81年継承誓う
070822 下野新聞 対馬丸、25年度内に海中調査へ
070810 下野新聞「対馬丸」生還 母の体験伝える
060822 下野新聞 引率した教え子たち「蕾のままに散りゆけり」
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