3.大正8年頃(1919年頃) 《今から約100年前》
 現在の白沢小学校の場所での体育の様子。まだ校舎が建築されていません。土地は明星院から譲り受けました。当時はこの辺り「白沢台」は俗称「学校山」とも呼んでいたそうです。写真をみると,現在の南門の付近はすでに土手や門が出来上がっているようです。現在もその面影を南門の辺りに垣間見ることができます。
   【解説】 明治20年に白沢尋常小学校と名称が変わっても,校舎は明星院本堂であった。正式な小学校になっても明星院を使っていることは課題であったはずである。そこで白髭神社の前に新しい校舎を明治23年に建築したが,当時の児童は300名ほどいたため,すぐに教室は一杯になり2階をカーテンなどで4つに仕切り,授業を行っていたそうである。また校庭も白髭神社の階段右側下の平地(現在のシルバー人材センター駐車場)に鉄棒が一列あるだけで,非常に狭かったと思われる。時代を経て2代目校舎が手狭になったため,再び明星院本堂が分教室となり,本校から児童は通学していたそうである。このような状況をを解消するため,同じく明星院の所有する山林権現山壱丁歩舎(現在の本校敷地)を大正3年に整地し,3代目校舎がこの地で建築が始まる大正9年までの間,運動場として使用していたようである。
 運動会もこの場所で行われていて,徒競走,騎馬戦,むかで競争,棒倒しなどが花形だったようである。この写真をみると周囲を玉石で葺いた土塁で囲み,門も大谷石とみられる石で作られていたことが分かる。写真を詳しく見ると,季節は冬のようで,木立ちは葉を落としている。子どもたちはみんな和服で,徒手体操を行なっている。先生はシャツとズボン姿の洋装で,ここで映っているかぎり1名で指導している。児童はざっと数えて100余名おり,尋常科が全校で当時約300名とすれば,その約3分の1の人数である。単純計算で2学年分と考えられる。背格好からみて尋常科の子どもたちと考えて差し支えなさそうである。
 4.大正10年(1921年) 《今から約95年前》
    現在の白沢小学校の場所での新校舎(2代目)落成式と伝えられる写真。
  

【解説】右側の人物は,高橋田麿(たかはし たまろ)校長。自由教育を推進した校長先生である。左側の人物を村長だと仮定すると釜井平村長である。この写真には「校舎落成時」との,後年の鉛筆書きによる記載されている。確かに万国旗が展張され,校舎の正面には大勢の人々が集合しており,式典が執り行われているように見える。またきちんとした身なりの大人がそこに向かっている様子が写っている。右側には自動車が2台映っている。当時珍しかった自動車は誰が乗ってきたものなのか。その手前には四方に竹を立て,それに幣束が下げられ,北側には祭壇らしきものが見える。地面の色も変わっており,何かが敷き詰められている。地鎮祭のようにも見える。
 また写真右側の地面(校庭)が弧状に踏み固められたように見え,土の色が濃いことから踏み固めれてあまり時間が経過していないように見える。想像をたくましくすると,徒競走が今行われているのか,あるいはこの写真を撮る直前に行われていたように見える。そしてこの弧状に踏み固められた跡を取り囲むように細い棒が一定間隔に立っていて,その上部付近に紐を結び,繋いでいる様子が見て取れる。またその棒のうち数本には小さな旗が取り付けられ,風になびいている。
 正門(現在の南門)から学校の玄関に向けて伸びる道にが砂利が敷かれている。その道の左側には穴や轍をに砂利を敷いて普請した跡が見える。また人が集まっている付近と西側の南北棟の前にも砂利が敷き詰められている。2台の自動車はここに駐車している。
しかしこれは一時的なものだと思われる。それは子どもたちが走り回って遊んだり,体育の授業を行なったりする校庭に砂利を敷くことは,大変危険なことであるからである。当時は靴を履く子は極少数で,,ほとんどは下駄,草履等,なかには裸足という場合もあったと
聞く。したがってこの敷石は式典のための一時的なものであったと思われる。
   ではその式典とは何か。たぶん来賓の自動車や万国旗,そして高橋校長と釜井村長と思われる写真が焼き込まれた写真なので新校舎落成式と思うのが一番妥当であると思われるが,落成式に地鎮祭のような式典も執り行われるのであろうか。また校庭では徒競走のような催しが行われるものなのだろうか。当時の習俗や風俗が現在とそう大きく異なるとは思えない。そう考えるとこの写真は,落成式典の時と考えてよいのだろうか。
 4-2 大正時代寸景 教職員の記念撮影  
 
【解説】大正10年に新築された3代目校舎の前で,記念撮影に収まる白沢小学校職員。

 中央のスタンドカラーで口髭の人物が高橋田麿校長。その右側の人物が,手塚岸衛(てづかきしえ)氏。氏は明治13年(1880年)塩谷町大宮に生まれ,県内で小学校教師をしたのち,千葉県師範学校付属小学校で自由教育の実践教育活動に取り組んだ。本校にも度々訪れ,自由教育の指導を行った。この写真はその際に記念に撮ったものと思われる。
   
 5.戦争中の時代 奉安殿(時期不明)本校所蔵の絵葉書より