白沢写真館
白沢小学校の1世紀以上にわたる歴史を,学校に残されている写真等の資料や地域の方々から
ご提供いただいた資料を皆様にご紹介いたします。  どうぞごゆっくりとご覧ください。
 
 1.明治6年(1873年) 《今から約145年前》
 この年の5月24日(土) 明星院本堂を仮校舎として「修身舎」と称し,開校しました。通学区域は,上岡本・白沢・長峰・下ヶ橋・西芦沼でした。
 
 明星院本堂 (真言宗智山派 龍池山明星院駄都寺) 【初代校舎】 
       
 現在の明星院本堂 
 
 
   
 2.明治26年(1896年) 《今から約120年前》
 白沢尋常高等小学校と名称が変わった頃の校舎。現在の白髭神社前,シルバー人材センターのところに建っていました。「修身舎」という名前は,明治20年に「白沢尋常小学校」に変わり,さらに明治23年に古里高等小学校が併置されました。この年,この写真の校舎(2代目)が完成しました。二階建ての校舎で当時白沢では一番立派な建物だったそうです。
 
 白沢尋常高等小学校 【2代目校舎】
  
 【解説】入口の向かって右側に「河内郡白澤尋常高等小学校」と書かれた板が掛けられている。向かって左側の樹木がツゲ(柘植)の木である。現在は校舎の1年生教室南側の築山に移植されている。
このツゲの木がいつ,どのような経緯でこの写真のところに植栽されたかは不明であるが,少なくとも100年以上,白沢小学校に通う子どもたちを靜かに見守ってきた由緒ある名木である。PTA新聞の「つげの木」という名は,この木から採っている。右側の樹木は,針葉樹で,ヒノキかサワラか。
 正面に並ぶ3名は,撮影記録が全く無いので詳細は不明だが,服装から推測すると,中央の洋装の男性は,校長と思われる。両側の和装の男性は当時の古里村関係者と思われ,どちらかが村長であろう。中央と左側の人物は写真の方を見ているが,右側の人物は写真を見ていない。
 幕末の頃,日本に写真機が紹介された頃,写真を撮ると魂が獲られるという迷信があった。なので写真機のレンズに目を合わせないということが良くあったようだ。そのようなことから右側の人物はこちらを見ていないのかもしれない。確かにこちらの男性の方が年配のようである。
 撮影された写真の中に,撮影された年月日がわかるヒントがないかと詳細を観察してみると,正面入口の左右観音開きのドアがかなり傷んでいる様子が分かる。開いたドアが落ちないように,下に石のような物を挟んでいる。また大谷石と思われる階段や,擁壁も石の角が丸まっており傷んでるように見える。さらに校舎正面右側の,横板張り外壁の下側2枚ほどの腐食が進行しているようで,これは地面で跳ね返った雨が板を腐らせているのかもしれない。さらに良く見ると,校舎2階南側の窓と1階の正面左側の窓枠が無い。2階の窓から部屋の中の向こう側(北側)の窓もみえるが,そちらがわも窓枠がないことが分かる。このような状態で,教育活動が行なわれていたと考えづらい。
 これらのことを総合し,想像をたくましくして見ることをお許しいただくと,大正10年に現在の白沢小学校の位置に木造校舎が新築されるわけだが,その校舎落成の前に29年間存続した,古い校舎の取り壊し中に撮ったお別れの写真だったのかもしれない。そうやって改めて見るとこの3人の表情は,なんとなく寂しそうに見える。ちなみにその年代であるとすると,高橋田麿校長と釜井吾平村長なのであるが,後出する写真の尊顔とは異なって見える。これらのことから,この写真の詳細は,現在のところ依然不明のままである。
 
 白髭神社の正面階段(大正期) 
 
 現在の白髭神社の正面階段と2代目校舎があった付近を望む 
 
 大正時代の児童と先生(大正4年) 
 解説】写真左側の端に「御即位記念 大正四年 九月 第二學年」とある。大正天皇の即位記念に撮った記念写真と思われる。女子27名,男子32名,成人女性1名(教師か)が写っている。一学級としてかなりの大人数である。前列が女子,後列が男子というのも興味深い。前列の女子は全員下駄を履き,白い足袋や白い下駄の子も見られる。また服装も整っていることから,即位記念の祝典が学校であり,そのための正装なのかもしれない。撮影場所は不明だが,バックが樹木が茂った斜面のようであることから,学校のすぐ脇(西側の)白髭神社の崖を背(当時の学校校庭の西の端)に撮ったのかもしてない。
 ここに写っている子どもたちは2年生なので,8歳とすれば明治40年生まれ。現在ご存命なら107歳の方々である。