日誌

【全児童】夏休み前朝会の校長講話「80年前、宇都宮大空襲があり、戦争が終わりました。」

 7月18日(金)の夏休み前の朝会で、80年前の「宇都宮大空襲」の話をしました。80回目の8月6日広島・8月9日長崎の原爆の日、8月15日の終戦を迎えるにあたり、子供たちと保護者の皆様が一緒に「平和の尊さ」「命の大切さ」を考えてもらう機会となればと思います。
(校長講話)
 1週間前の7月12日(土)、下野新聞から「宇都宮大空襲」の見出しで新聞が配られました。大空襲から80年がたち、戦争の悲惨さを今に伝えるために特集紙面として発行されたものです。80年前の宇都宮で何があったのでしょう?
 80年前、日本はアメリカと戦争をしていました。80年前の1945年(昭和20年)7月12日午後11時19分~13日午前1時39分のおよそ2時間、115機のB29爆撃機が宇都宮に飛来して1万を超える「焼夷弾」という爆弾を落としました。600人を超える人が亡くなり、9000件を超える家が焼け落ちて、宇都宮駅から東武宇都宮駅までの大部分が焼け野原となりました。宇都宮市には陸軍の基地があったこと、そして飛行機を作る工場があったことなどからアメリカ軍の爆撃対象となったのです。(この後、宇都宮平和祈念館を作る会作成の紙芝居動画「火の海になった宇都宮」を視聴。低学年児童へ配慮し、内容を吟味して6分間の抜粋で行う。)
 この空からの写真は飛行場を写したものです。左側に写っているのが鬼怒川です。今から80年前、清原中学校や作新学院大学から清原工業団地にかけて、「宇都宮陸軍飛行場」と言う飛行場がありました。みんなが住んでいる清原地区(当時は清原村)でも、アメリカ軍の空襲(機銃掃射)があったそうです。今でも、栃木県農業大学校(宇都宮市上籠谷町)の敷地には、日本軍の飛行機をアメリカ軍の空襲から守るために作った「掩体壕(えんたいごう)」という建物が保存されています。
 皆さんに質問です。校長先生が話した「宇都宮大空襲」の時に生まれた赤ちゃんは今何歳になっているでしょう?そう80才になります。その時、小学生・中学生だった人は90才くらいになります。今、たくさんの方々が、戦争の体験を戦争を知らない皆さんに伝えるために尽力してくれています。80年前に宇都宮市大空襲で焼け野原となった宇都宮市は、写真にあるように50万人を超える中核市へと復興を遂げました。焼け焦げた「大イチョウ」は、青々とした葉を茂らせ宇都宮市復興のシンボルとなっています。これも、戦禍を乗り越えた先人の方々のお陰であることを忘れてはいけません。
 これから41日間の夏休みが始まります。夏休みの間に、戦後80回目の「原爆の日」や「終戦記念日」を迎えます。宇都宮市では、7月12日を「宇都宮市 平和の日」、7月12日から8月15日までの期間を「宇都宮市 平和月間」に定め、戦争の悲惨さや平和の大切さをみんなに伝えています。皆さんも、お家の人と一緒に「平和の尊さ」「命の大切さ」について考えてみてください。 

ピースうつのみや 宇都宮平和祈念館を作る会作成の紙芝居動画「火の海になった宇都宮」
070712下野新聞「宇都宮大空襲 あの戦禍忘れない」
宇都宮市平和啓発リーフレット
とちぎふるさと学習「宇都宮空襲」とちぎの空襲・戦禍を語り継ぐ会 とちぎ炎の記憶
総務省 宇都宮市における戦災の状況
【宇都宮市】「宇都宮空襲の記憶 未来へつなぐ」平和啓発動画
戦争体験者による「語り部・語り継ぎ講演会」の動画